結構深い溝があるかもしれない

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第二弾 ライトノベルに関して、こんなエントリを見付けた。
2007-08-25
桜坂洋の「All You Need is Kill」(以下、「All You〜」)はわりと楽しく読めたのだけれど、こういう意見が出てくるのも分からなくもない。
まず純文学サイドの話から始めると、僕は今ローレンス・ダレルの「アレクサンドリア四重奏」を読んでいる。これはライトノベルのように気軽に読める代物ではなくて、一語一字ごとにこの小説の他の部分や、僕が読んだことのある別の小説の表現や、現実の事物を思い浮かべながらイメージを構築していかなくてはならない。
けれどそれがこういった小説を読むことの醍醐味であるわけで、脳味噌をフル回転させて作り上げたイメージと言葉の結び付きは消えることが無い。乏しいなりに読書経験を持つこの僕が、この時、この場所でこの小説を読まなければ得ることのできなかった固有の経験として僕の中に残る。
そういう読書をするためには、「紙面のこちら側」にある、自分の自我を高めておかないといけない。僕はアレキサンドリアの気温を知らない。だから日差しや風や人々の服装や汗からそういうものを読み取ろうとする。そういう姿勢が読書の緊張感を生み、読後の満足感を増してくれる。物語の中にさまざまの情報が精妙に配置されているなら、僕は僕自身が密かに望んでいるように、ある精神の形に沿って事象が組み上げられた完全な世界のリアリティを手にすることができる。
(もっとも、他にもいい読み方はあるだろうし、僕は最近集中力が上がらなくてあまり進んでいないのだけれど。)
「All You〜」はそういう小説とは対極にあると思う。リンク先にもあるように、いきなり「想像してみるがいい」とこちらに主導権を投げてくる。これは、実際には「想像できるよね、じゃあ、一緒にいこうか」というメッセージに等しいと思う。そして、実際、書いてあることはほとんど全て瞬時に理解できる。深読みしなくてもいいことが分かる。情報は粗密なく常に必要な分だけ供給される。どんでん返しがあるかもしれないが、自分の知識や読解力を嘲笑うようなどんでん返しは絶対に無い。ギャグもエスプリも必ず理解できる。かくして、読者は「自分のイメージ=作者のイメージ」という感覚を抱いたまま読み進めることができる。書いてみるとこれは恐ろしく難しいことだと分かるのだけれど。
id:kuriyamakoujiさんが冒頭で投げてしまったのはベストのタイミングだったのかもしれない。僕も文体の面では何も心に残っていなくて、面白かったのはSFガジェットとキャラクターの心情の絡み合いだった。非ライトノベルになれた人は、ライトノベルを読むのにコツを必要とするかもしれない。僕は今回発泡酒片手にさらさらっと「All You〜」を読み返したけど、そういう感じの。
僕は以前ローレンス・ダレルの「黒い本」について一つエントリを書いたけれども、他の人がどう書いているかはあまり気にならなかった。前述したように、僕だけができる僕だけの読書体験だという気がしたからだ。あるいは、他の人の鋭い読みを見たら自分の読みの浅はかさに気づかされるかもしれないし。
けれど、「All You〜」を始めこれまた前述したような読みやすさを備えた本だと、他の人の評価が気になる。なぜなのか、はっきりとは分からない。その読書経験の中に自分固有の情報が含まれておらず、そもそもコミュニケートとは存在しない固有性を見出す営みだからかもしれない。
ともかく、「他の人の評価が気になる」という性質が売上げに貢献するのは確かだと思う。友人に「読んでみなよ」と勧める動機はそれだろう。ライトノベルが大量に出版されれば読者はそういう性質を学習し、ブログで他の人の感想を読んで、自分も感想を述べてコミュニケーションに参加したいと思うかもしれない。
コンテンツ志向と対比されるコミュニケーション志向を僕はこんな風にとらえている。東浩紀氏がゲーム的リアリズムの誕生で述べた「環境分析的読解」というのはこういうことだと思う。コミュニケーション志向を発生させる事ができる書き方はあるのだけれど、読み手とネットや書店(=マーケット)が条件を満たさなければコミュニケーションは発達しない。
さて……
ここまでは綺麗事を書いてきたけれど、もっとマニアックな、ディープなライトノベルをいわゆる「おたく」でない人に勧めるにはどうすればいいのだろう?「わからないのならわからないでいい」と言ってしまうべきだろうか?
僕はライトノベルに便宜的にレッテルを貼っている。「All You〜」、桜庭一樹の「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」は左派、「涼宮ハルヒ」シリーズ、「文学少女」シリーズは保守中道、「撲殺天使ドクロちゃん」が極右、という風に。現在の日本と同じく、外部勢力の影響によって左右が倒錯している。(ちなみにドクロちゃんは未読だけど……)
左派は外国との融和を説く。つまり、ライトノベル的でない読み方を許容する。ただし当の外国人がどう思うかは知らない。保守中道は売れ線。勢力が大きい。右翼になると斬新かつ過激なものとなる。彼らは自分達こそライトノベルの正しい在り方だと信じているかもしれないし、事実「ライトノベルでなければできない」事をやっている。アメリカにあたるのは芥川賞直木賞を頂点とする既存文芸のヒエラルキー。まあ……僕はそんなに読んでいるわけでもないし、印象論の域を出ないのであまり真面目にとらないでください。
つまり、「All You〜」はライトノベルに慣れていない人でも読み易い部類にはいるのではないか、ということ。「涼宮ハルヒの消失」は文体の面では前述した文体の特徴を持っているし、SFの大仕掛けが物語の骨格になっている点も「All You〜」と共通している。けれど「萌え」の要素が入ってくる。メインの女性キャラ三人のいわゆる「萌え要素」の配置は精妙極まる見事なものだし、当然動物化して「長門萌え〜」と心の中で呻く野郎が出てくるし、綾波から連なる無表情キャラの系譜を辿る知ったかぶりも出てくる。(僕は最後。)どれもオタクとしては当然の反応で、おたくにしか出来ない楽しみ方のような気がする。
そう、萌えだ。これは厄介だ。萌え要素リテラシーの問題がある。萌えキャラは萌え要素からできている。だがこの萌え要素にはかなり複雑微妙な文法があり、一筋縄では読み解くことが出来ない。もっとも基礎的な文法はおそらく現実世界に根ざしているけれど、その上に過去の膨大なキャラクターたちの記憶があり、物語のストーリーや設定に呼応する要素があり、作者の好みの表明があり、もちろん視覚デザインにおける美的基準にも準拠し、流行にも配慮しなければならない。もはや一つの言語と言ってもいいかもしれない。僕も最近はもうついていけない。
そして読者は、そういう言語を「読む」わけだけど、無意識のうちに読んでいるので他人に読み方を教えられない。
僕はさっきアレクサンドリアの気温を知らないと書いた。読み終わったとき、僕はそれを自分なりの体験として、知るかもしれない。その体験は、実際にアレクサンドリアに行ってみた体験とは、引き換えにできない。読むことでしか立ち上がらないリアリティがある。ライトノベルの萌えキャラのリアリティは、たぶんそういうものだと思う。イラストを見た時点でキャラクターがリアリティを持って立ち上がり、本文を読んでいる間も動きつづける。声優に詳しいおたくだったら声も付いているかもしれない。
さて……保守中道と書いたハルヒでさえこうなのだから、右翼の方はどうなっているかというと……
わりと右寄りと思われる「ソラにウサギがのぼるころ」を紹介しようかと思ったけど、気力が尽きた。ドクロちゃんを越える最右翼が登場したという話も聞かないので、「撲殺天使ドクロちゃん」(おかゆまさき 著)を読んでみればたぶん分かると思う。そんなに高い買いものでもないし、腹が立ったら焚き付けにでも使えばいい。
思わぬ長文になった。ライトノベルとかおたくの何やかやをあまり知らない人向けに書いたのだけれど、こんなことを書いて脅かすのはよくなかったかもしれない。実際には、もっと気楽に読んでいる人が大半だろうし。
確か村上龍が書いていたと思ったのだけれど、「日本人は見たものをイメージで捉えてしまう、動物からもっとも離れた民族になってしまった」というような文章を読んだ覚えがある。おたく系の文化はその「イメージで捉える」という能力を極度に発達させた特殊な文化であるように思う。

Ruby, Java, Python

あー最近全然書いてないや。
んで、関係ない戯言。
toheart.to

たとえば「perl攻めjava受け」とか。
これ、オレ結構萌えるかも。

Rubyをちょっと使ったことがあるので、すぐに妄想大暴走した。
由貴香織里の「少年残像」を思い出す事。

Java
エイドリアン。「SingletonをClassを継承して実装するなんて、そんな自堕落な事をしていいわけが無いだろう!」
Ruby
ローレンス。「配列になんでも入れるようなやつが傷つくなんて思わなかった?」
Python
オリジナルキャラ。神学校か何かに通っていて、信仰深く、品行方正。ローレンスより一つ年上だけど背は低い。「デザインパターンの神は常にあなたを見ておられます。ふしだらな開発体制を慎み、ドキュメントを充実させなければ」

オリジナルキャラが冴えないのは、まあ、しょうがないか。でも確かPythonも配列には……

夜の散文

散歩に行ってきた。健康的な朝の散歩みたいではあるけれど、実は昼夜逆転が酷くて昨日は夕方に起きた。二日続けて酒を飲んだので一時的に鬱だった。
道を歩くと通学途中の小学生とすれ違う。生け垣にツツジが咲いている。そういったものたちと今の自分の隔たりを無感動に受け入れる。
僕はもう本当の望みを失ってしまったような気がする。鬱の時は何もかもどうでもいい。あるいは何もかも疎ましい。人をそんな状態にさせる物質がこの世にあると知ってしまったから、どんな望みも自分の本当の望みではないと、そう見なさなければならない。
どこかに絶対的な価値を持つものがあるのかもしれない。一度はキリスト教を勉強したことがあったけれど、神は人がいてこそ意味がある。意味があるということは、その価値は絶対的なものではなかった。神は人を愛している。それゆえに、愛さないことはできない。愛していないのなら、人間は存在しない。そのときに神は愛の意味を語る相手を持たないだろう。存在することには根本的な制約がついて回る。
というわけで今の僕は唯物論者に近い。でも神がいないとは思わない。そんな考えは科学的論理的な思考の上でも不合理だ。分からないことは分からないと言わなければならない。沈黙してはいけない。
ともかく、物質が存在していることを認めない人は少ないだろう。物質はただ存在している。存在しているに過ぎない、と言い替えてもいい。そういう存在のしかたは、存在するということの意味に忠実だ。神や人は自分が存在するということを知っている。それゆえに、その知と実在の間に意味を見出さずにいることはできない。
そんな制約の下で、「価値があるものとは何だろう?」と問うならば、いちいち物質の性質にたちかえって考えた方がいい気がする。片手に物理の知識を持ち、もう片方の手には僕は理不尽にもこの世界を愛しているという事実を持って。
さて熱力学について考えるとき、世界はいずれ死ぬという。そんな世界の価値は何か?別の世界を生み出すことだ。別の世界なんか存在しないという言葉を僕は信じない。存在しないという言葉には、そもそも一片の意味もないのだから。
本当の望みなどなくても生きていける。世界が存在していれば。

胡蝶

あの蝶は夕暮れの後
夜に沈んでしまうのではなかろうか
僕は眠りの中で鱗粉を呼吸する
朝を越えずに夢のまま
手にかかる水は鮮やかに
皮膚感覚と表題音楽をつないで

一度見た悪夢の内容を覚えている
妹が泣き叫びながら畳の隙間に
目が覚めたことは憶えていない

あの魚は空中で
干からびてしまうのではなかろうか
空気を支配する臭気だけがやたら近く
眠らなくても これは夢で
煙草の煙が定義する
流体力学の絶対時空
誰かが全てを知っているような

僕は死なないだろう
あの蝶はどこにも飛んでいかないだろう