猪瀬直樹副知事の言い分はおかしい

Twitter / @猪瀬直樹

自分が作品をうまく書けないことを、条例のせいにしてはいけない。そんなものがあってもなくても傑作ができれば条例なんてすっ飛んでしまう。

このへんのツィート。


頂上に登り詰めるためには、まず一合目から登り始めなければならない。
当然、一合目での障害物が多ければ登り詰める人間も減る。
登り詰める事の出来なかった人を貶しても、障害物を増やした責任は消えない。


 仮に、一人の漫画家がいたとしましょう。我々は美の女神の加護を得て、彼が傑作を描けるかどうか、そしてどの作品が傑作になるか分かるものとします。
 彼は今、二ヶ月かかる読み切りの仕事に取りかかろうとしていますが、二つのテーマのうちどちらを描こうか迷っています。一つは極めて過激なテーマで、都の条例に引っかかるかもしれません。もう一つは無難なテーマで、引っかかることはありません。
 仕事に二ヶ月かかるのなら、二ヶ月分の生活費を稼がねばならないのは自明です。しかし都の条例に引っかかった場合、どの程度収入が減るのか分かりません。取次やネット書店がどう反応するか分からないからです。
 彼は無難なテーマを選びました。しかしそれは凡作でした。もし過激なテーマの方を選んでいれば、それは世紀の大傑作となり、人類の財産に新たなものを加えることになったのですが。

 ありがちなたとえ話です。この漫画家は意気地無しです。けれど、「だから条例は無関係だ」と言うことは出来ません。明らかに条例はこの世紀の大損失に対して責任があります。
 猪瀬氏の言うことがもっともらしく聞こえるのは、「作品の出来が悪いのは作者のせいだ」という至極真当な考えを我々が共有しているからです。その通り、そうあるべきです。
 しかし、今回の条例や、その他のあらゆる表現規制は、その作者の領域に踏み込みます。本来作者の責任であるべき事柄を、東京都は、今回の条例によって背負い込みました。よって、東京都副知事の立場にある人物が、最初にあげたような発言をすることは、無責任です。

 また、作者の良心の問題もあります。
 本来、何かを表現しようとする人間は、発表する前のいずれかの時点で、自らの良心に問いかけます。
「これを発表するべきか、これは、いかなる精神に対して有益なのか、あるいは有害なのか」
 しかし、表現に対して何らかの検閲、規制がある場合、良心の一部を、検閲や規制を行う側に委ねなくてはなりません。その領域では自らの良心の出した答えが無意味だからです。
 たとい地下出版にする気概を持っていても、その影響を消し去ることは出来ません。公に出版していたら届いていたはずの読者の人生を損うことになるからです。
 自らの良心に問いかけることは、表現に限らず、一般的に極めて重要です。それを公権力に委ねるべきではありません。法律や条例ではなく、自らの良心に聞かねばなりません。なぜなら法律と良心は一致しないからです。その前提の下に民主主義はあります。自由な表現が民主主義の血を清めています。

 こんなことは、作家であれば「教科書レベル」だと思うのですが、書くことを忘れ貧乏を忘れ、権力を得てちやほやされることに慣れると忘れてしまうものなのでしょうか。
 僕はてっきり、都の方でも、今回の条例は表現を萎縮させ自由を損なうことを分かっていて、でも共働きが多かったり書店がゾーニングの役割を果たしていなかったりして「緊急避難」的に条例を作ったものと思っていたのですが、まさか何の問題も無いと思っているとは、驚きです。

 あ、でも地下鉄の一元化は頑張ってください。応援しています。

[雑記]復活か

実家に戻り、アルバイトや派遣社員など経験しておりました。小説は少しづつ書いているものの詩はさっぱりです。はてなの記法もすっかり忘れてしまいました。

知り合いにもこのブログの事を知らせ、今までとはちょっと違ったやり方で再会しようかなと思っています。関心のあることや考え方は大して変わっていないので、それほど大きくは変わらないでしょうけど。

赤木論文を読んだ

最初は斎藤環茂木健一郎往復書簡のページからたどってこちらのブログ 葉っぱのBlog「終わりある日常」 に辿り着いたのだけど、ちょくちょく覗くようになって、気になって赤木論文を読んでみた。ネットでは以前から話題になっていたので今さらという感じもするけれどね。
「丸山眞男」をひっぱたきたい
けっきょく、「自己責任」 ですか
希望は、戦争?blog 〜「丸山眞男」をひっぱたきたい Returns〜

なるほど、戦争に一直線というわけではないのか。けれど、戦争というキーワードは外せない。なぜなら戦争が起こる可能性は実際に存在していて、左翼は戦争そのものを食い止めようとするより、その「戦争が起こりうる」という観念そのものを抹殺しようとする運動に成り果ててしまった。
応答をしたいわゆる左翼言論人の人達は、たとえ嘘でも、「よしわかった、これからは君の世代のフリーターも考慮に入れる」と発言すれば、一つ戦争の芽を摘めるのに、そうしなかった。あるいはそれが不可能なほど、状況が硬直していた。
つまり、左翼は現実的な対応ができないでいる。戦争が起こる可能性は格差が開くほど、下層の人達が貧困と劣等感に苛まれるほど増えるのに。あるいは戦争でなくてテロリズムの形に結実するかもしれないのに。赤木さん一人を論破してすむ話ではない。
戦争が現実に起こりうるという観念を持っていなければ、平和を求めあるいは維持する営みは現実的にならない。だが、左翼だけでなく、戦後民主主義教育を受けて、今はある程度の暮らしをしている人達の多くが、戦争が起こるかもしれない、なんて考えたくもないと思っているだろう。
だから彼らは「戦争が起こるかもしれない」という観念を抑圧する。平和であることは、正しく当り前で価値があると、それも比較不能な超越的価値があると無意識のうちに考える。意識に昇らせてしまうと比較検証が可能になって、価値の超越性は否定される。パラノイアの基本構造だ。*1
赤木さんは論文の中で戦争と平和を秤にかけて見せた。これにどう反応するかが最初の試金石になるのだろう。盲目的に戦争は良くないと反応するのか、あるいは赤木さんが示している平和への道に気づくのか。
これが「戦争」という言葉が不可欠である理由だと思う。
かくして、パラノイアの構造を脱したあとは、「戦争か平和か」という文脈を離れて議論が可能になるだろう。善と悪、神と悪魔のような絶対的な対立軸としてではなく、目的に適うかどうかで計られる現実的な手段として。
けれど、ラカンに習って言えば、パラノイアは普遍的でもある。何度も赤木論文に戻ってこなければならないだろう。「平和」の代わりに別のものが超越的な価値を潜在させて登場してくるかもしれないからだ。その点で、赤木さんが「右翼になるつもりはない」と書いているのを読んで安心した。

さて……
具体的にどうすればいいのか、僕にはさっぱり思い付かない。僕は甘やかされていて、厳しい状況には置かれていないし、経済や福祉に関する知識も全然無い。
でも赤木さんの要求は切実でまっとうなものだと思う。その実現にあたって、僕に不利益が及ぶとしても、少しぐらいは我慢しなくちゃね、と思う。

しかし、いつもながら、どこにトラックバックを送ればいいのか悩む。はてなidトラックバック自動トラックバックのみ?

*1:すぐあとにも触れるけれど、ここで言うパラノイアには異常であるという意味はない。価値判断の大元には必ずこういう構造がある。この場合問題は、平和に価値を見いだしていながら、実際には平和を遠ざけてしまうという矛盾にある。

おたくとヴィレッジバンガード

ええっ、都会のおたくはヴィレッジバンガードに入れないの?

http://sukebeningen.blog46.fc2.com/blog-entry-83.html

いや、都会は関係ないのかもしれないけど、僕は田舎に住んでいて最近郊外のショッピングモールにヴィレッジバンガードができた。で、「こんな田舎にも出店するんだからファッションセンターしまむらと同じくらい大衆化してるでしょ」という感じで平然と入れた。
だから「都会ではそうなのかな」と考えてしまうんだけど、どうなんだろ。
文化に憧れる田舎者の思考パターンは、東京にコアなものがあるけどそれが自分の地方にやってくるころにはすっかり角が取れて丸くなっているに違いない、というものだ。それはヴィレッジバンガード秋葉原も同じ。事実最寄りの町にはアニメイトしか無い。とらのあなメロンブックスも無い。
数少ない友人の一人は本田透の愛読者で一時喪板コピペブログをやってたけど、そいつはヴィレッジバンガードcapsuleのCDを買ってきて悪びれもしない。んで僕の部屋で呑んだときは東方アレンジとcapsuleと某声優の曲が入り乱れて流れるという事態になった。麗しきかな半端者人生。

あるいは、僕はサブカルなのか?確かにスタジオボイスエヴァ特集は買ったし、ユリイカジャパニメーション特集も買った。エヴァンゲリオン・スタイルも買ったし、聖母エヴァンゲリオンも買った。詩と称するものも書いてるし。
けど分かる人には僕の詩にセンスが無いというのは分かるだろうし、二十七歳男性が百合姫買ってたらキモオタだろう。ましてふたなりっ娘LOVEのシリーズも持ってるとなれば。
おたくは架空のキャラクターに自分の性を振り向けることができるのが特徴でもあり嫌悪される点でもある。だからほぼ全て二次元キャラに振り向けている自分は、「オタクである」という自己規定を変える気はないし、できないだろうなあ。

ともかく、中途半端おたくライフは楽しい。

余談:ヴィレッジバンガードに「シャイニング娘。」の単行本が置いてあって笑った。そういう回路もあったのか。あれがありならジャム王子の「BAD SLAMMERS」も置くといいかも。

禁猟区の上空より

禁猟区の上空より眺め下ろす
森は広く深く
低音に向かう無限音階の稠密さ
樹木は何よりも大きい
陽光は乱反射を経て浸透し
照葉樹の葉は光をむしろ吐き出す
生命の呼気と共に凝結し
見上げれば 光の雲から霧雨

渇きは無く 影も無く
蘚苔類は領地の絨毯に腐心する
天敵を忘れた小動物たちが
円筒形の大地の上で回り続ける
昆虫たちは樹液の井戸端で喋り続ける
蜘蛛が自在に宙を舞う
本能を離れて糸を張り
乱雑が平均に行き着けば
あらゆる場所に あらゆる方向
糸が空間を満たしている

時は重力と一致した
過去から落ち来て
未来へ落ち行く
無風の中を葉が落ちる
一寸、降下すれば蜘蛛の糸にかかり
一つの音符を待つ
糸を水銀の珠が渡る かすめられ
一拍、降下して 蜘蛛の糸にかかり

ずっと、空中に満ちる光と水を呼吸しながら
下に/未来に広がる死の無い闇、海に
 水の無い波に、無限に
落ちていく

枝の上を行く配達人たちはもはや疲れの主で
それでも落ちている水晶の手紙を拾い
背負い棚に納めて旅を続ける
表面に彫り付けられた宛先の場所はすでに無く
文面は内部の微細な傷に記されて
読み出す幻灯機もすでに失われた

いつしか 背に負った手紙を森にぶちまける
枝の上で 宙に
手紙は蜘蛛の糸を破りながら 幾百万の意味を回転させながら
名前の無い未来に/下に 垂直に
落ちていく
有限の果て どこかの枝に降りるまで

軽くなった体で歩き始めれば
百時間後か、百世紀後か
配達人の死体に出会う
また手紙を拾い始める
百時間前か、百世紀前か
誰かがぶちまけた手紙を
時折、枝の上に見出す
未来しか向かう所の無い手紙を

枝の間を渡り 時を横切り
旅は続く
禁猟区の光の中で

気に入ったならブライアン・W・オールディスの「地球の長い午後」とかも読むべし。SF小説

アンチ道程

高村光太郎の詩集を買ってきた。当然、有名な道程の詩も入っているのだが、あまりにも能天気に見えてむかつく。
というわけでパロディにしてみよう。

僕の前に道は無い
僕の後にも道は無い
右手には壁 左手にも壁
あるいはこっちが前だったか 後ろだったか
湿田のごとき泥の海に腰まではまり
太陽も北極星も無しに前後左右の分別が付くものか
左右の壁が石の壁なら叩き壊してくれようず
さわりたくもない 糞の壁じゃ
この臭い泥海に 男子の夢が何ぞある
星座の無い夜空の下で
誰が宝の地図を読み解く

ああ、自然よ
貴様等は時計の針と暦と謀って
僕の眼前を飛び過ぎる
どんな言葉も追い付かぬ
美しいのは失われたもの
新しいものは凡庸に堕す
昨日と同じ靴で朝露を踏む

父よ
丈夫な肝臓をありがとう
最近はウィスキーを半分も空けねば調子が出ない

おまえらの道程とやら 散歩気分で楽しそうだな
うららかに陽が射しているのだろう
隣を歩く者もいるのだろう
僕は目を閉じ この小さな小宇宙に充足するぞ

僕を一人立ちにさせない姿無き亡霊どもよ
もう僕から目を離し構うのを止めてくれ
僕はすでに実り無き妄想に満たされている

僕は何一つ成さぬ
僕は何一つ果たさぬ

この暗き道程のため
この暗き道程のため

まあ、ほんとはここまで世をすねているわけではないけどね。
智恵子Showという駄洒落も思い付いたんだけどあんまり不謹慎になりそうなのでやめた。