夜の散文

散歩に行ってきた。健康的な朝の散歩みたいではあるけれど、実は昼夜逆転が酷くて昨日は夕方に起きた。二日続けて酒を飲んだので一時的に鬱だった。
道を歩くと通学途中の小学生とすれ違う。生け垣にツツジが咲いている。そういったものたちと今の自分の隔たりを無感動に受け入れる。
僕はもう本当の望みを失ってしまったような気がする。鬱の時は何もかもどうでもいい。あるいは何もかも疎ましい。人をそんな状態にさせる物質がこの世にあると知ってしまったから、どんな望みも自分の本当の望みではないと、そう見なさなければならない。
どこかに絶対的な価値を持つものがあるのかもしれない。一度はキリスト教を勉強したことがあったけれど、神は人がいてこそ意味がある。意味があるということは、その価値は絶対的なものではなかった。神は人を愛している。それゆえに、愛さないことはできない。愛していないのなら、人間は存在しない。そのときに神は愛の意味を語る相手を持たないだろう。存在することには根本的な制約がついて回る。
というわけで今の僕は唯物論者に近い。でも神がいないとは思わない。そんな考えは科学的論理的な思考の上でも不合理だ。分からないことは分からないと言わなければならない。沈黙してはいけない。
ともかく、物質が存在していることを認めない人は少ないだろう。物質はただ存在している。存在しているに過ぎない、と言い替えてもいい。そういう存在のしかたは、存在するということの意味に忠実だ。神や人は自分が存在するということを知っている。それゆえに、その知と実在の間に意味を見出さずにいることはできない。
そんな制約の下で、「価値があるものとは何だろう?」と問うならば、いちいち物質の性質にたちかえって考えた方がいい気がする。片手に物理の知識を持ち、もう片方の手には僕は理不尽にもこの世界を愛しているという事実を持って。
さて熱力学について考えるとき、世界はいずれ死ぬという。そんな世界の価値は何か?別の世界を生み出すことだ。別の世界なんか存在しないという言葉を僕は信じない。存在しないという言葉には、そもそも一片の意味もないのだから。
本当の望みなどなくても生きていける。世界が存在していれば。