赤木論文を読んだ

最初は斎藤環茂木健一郎往復書簡のページからたどってこちらのブログ 葉っぱのBlog「終わりある日常」 に辿り着いたのだけど、ちょくちょく覗くようになって、気になって赤木論文を読んでみた。ネットでは以前から話題になっていたので今さらという感じもするけれどね。
「丸山眞男」をひっぱたきたい
けっきょく、「自己責任」 ですか
希望は、戦争?blog 〜「丸山眞男」をひっぱたきたい Returns〜

なるほど、戦争に一直線というわけではないのか。けれど、戦争というキーワードは外せない。なぜなら戦争が起こる可能性は実際に存在していて、左翼は戦争そのものを食い止めようとするより、その「戦争が起こりうる」という観念そのものを抹殺しようとする運動に成り果ててしまった。
応答をしたいわゆる左翼言論人の人達は、たとえ嘘でも、「よしわかった、これからは君の世代のフリーターも考慮に入れる」と発言すれば、一つ戦争の芽を摘めるのに、そうしなかった。あるいはそれが不可能なほど、状況が硬直していた。
つまり、左翼は現実的な対応ができないでいる。戦争が起こる可能性は格差が開くほど、下層の人達が貧困と劣等感に苛まれるほど増えるのに。あるいは戦争でなくてテロリズムの形に結実するかもしれないのに。赤木さん一人を論破してすむ話ではない。
戦争が現実に起こりうるという観念を持っていなければ、平和を求めあるいは維持する営みは現実的にならない。だが、左翼だけでなく、戦後民主主義教育を受けて、今はある程度の暮らしをしている人達の多くが、戦争が起こるかもしれない、なんて考えたくもないと思っているだろう。
だから彼らは「戦争が起こるかもしれない」という観念を抑圧する。平和であることは、正しく当り前で価値があると、それも比較不能な超越的価値があると無意識のうちに考える。意識に昇らせてしまうと比較検証が可能になって、価値の超越性は否定される。パラノイアの基本構造だ。*1
赤木さんは論文の中で戦争と平和を秤にかけて見せた。これにどう反応するかが最初の試金石になるのだろう。盲目的に戦争は良くないと反応するのか、あるいは赤木さんが示している平和への道に気づくのか。
これが「戦争」という言葉が不可欠である理由だと思う。
かくして、パラノイアの構造を脱したあとは、「戦争か平和か」という文脈を離れて議論が可能になるだろう。善と悪、神と悪魔のような絶対的な対立軸としてではなく、目的に適うかどうかで計られる現実的な手段として。
けれど、ラカンに習って言えば、パラノイアは普遍的でもある。何度も赤木論文に戻ってこなければならないだろう。「平和」の代わりに別のものが超越的な価値を潜在させて登場してくるかもしれないからだ。その点で、赤木さんが「右翼になるつもりはない」と書いているのを読んで安心した。

さて……
具体的にどうすればいいのか、僕にはさっぱり思い付かない。僕は甘やかされていて、厳しい状況には置かれていないし、経済や福祉に関する知識も全然無い。
でも赤木さんの要求は切実でまっとうなものだと思う。その実現にあたって、僕に不利益が及ぶとしても、少しぐらいは我慢しなくちゃね、と思う。

しかし、いつもながら、どこにトラックバックを送ればいいのか悩む。はてなidトラックバック自動トラックバックのみ?

*1:すぐあとにも触れるけれど、ここで言うパラノイアには異常であるという意味はない。価値判断の大元には必ずこういう構造がある。この場合問題は、平和に価値を見いだしていながら、実際には平和を遠ざけてしまうという矛盾にある。