ローレンス・ダレル『黒い本』

で、何もしたくない時は本を読み返すことが多いです。もう内容を知っているので楽なんですよね。今回読み返していたのはローレンス・ダレルの「黒い本」です。
確か買ったのは大学時代で、古本市に並べられていたのを「すげーほんとに黒いぜ。かっこいー」みたいなノリで買ったのですが、これがとんでもない難物で完読するのに苦労した覚えがあります。冒頭を引用してみましょう。

幕間狂言を。では始めよう。今日は東地中海沿岸から、強風が吹き上げてきている。朝がやってきた。現像液にひたった一巻きのフィルムに沿って流れる黄色い霧のように。この窓から見下ろせる白く泡立つ海峡を越え、遠くビヴァリーから、水神がその贈り物を届けてきた──泥を、濃い黄褐色の沈澱となって、湾を横切っている泥を。風はその通る道すがら、巨大なかい掘りのように、海の臓腑をすっかり浚えてしまい、それをわれわれめがけて投げつけた。漁師たちは、もう魚叉で突こうにも、魚の姿が見えないと言ってこぼしている。だがおかげで、赤茶色のかさごや蛸は、カーバイドや三叉の魚叉を恐れる心配が無くなった。まったく外界から隔絶され、泥の粘膜におおわれた、薄暗い深海の生物。冬のイオニア海は、また元のひそやかさの中へ戻ってしまった。

傍点と振り仮名は省略しました。

これより読みやすい箇所も読みづらい箇所もあるのですが、全編このような感じで、さまざまの語彙と比喩を駆使してきらびやかなまでのイメージと観念を紡いでいきます。
ストーリー性というものはほとんどなく、何度も描写される人物とその行動を通して、はっきりしない時系列の中で読み手がその変化を再構成し、追っていかないといけません。また、他にいくらでも読み方があるでしょう。
また、語り手の「ぼく」はたびたびグレゴリーなる人物の日記を引用します。

...
わたしの書きたかった唯一の本の主題は、いまだに時たまわたしに誘いかけ、混乱したぶざまな凡人たちの世界での、その形式上の優秀性を主張する。わたしはこの作品を、一つの深奥な人生分析として──現代に捧げる墓碑銘として計画していたのだ。その主題は歓楽であり、題名は──世間のうるさい目をかまわずあえて言えば──「尿」だ。白地に金文字でただ一語、この神々しいばかりに有機的な文字を。小さな本になるはずだった。...
(中略)...
本当に、とわたしは独りごちるのだ、本当にそのうち、いよいよこれを書き始める気になるだろうと。その時まで、今はただこの題扉だけを、読者の想像力にゆだねよう──この単純な象徴の下に、なんという性腺の忘我が、何という望みが輝くことか!

  デス・グレゴリー作 「尿」

グレゴリーはそこで終わっている。

ここだけ読むと誤解をしてしまいそうな部分を引用してしまいましたが、通して読んでいると糞真面目に受け取らざるをえません。
奥付を見ると初版は昭和36年、僕の持っているのは昭和44年に出た第四版のようです。厚紙の箱に入った凝った装丁なのですが、定価を見ると530円とあります。当時の物価思うべし。

黒い本
ローレンス・ダレル 著
河野一郎
中央公論社